自分の要領の悪さに傷つきながら毎日精一杯仕事をしている。仕事の合間に更衣室で泣いていること、誰にも悟らせたくない。眠れなくて吹き替えの映画を立て続けに観ていたら朝になっていた。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、サイドテーブルに置いたままにしていたビールのプルトップに反射しては天井に小さな楕円を作っている。天使の輪だ。誰に頼まれるでもなく、身体は毎朝きちんと8時に目が覚める。こんなの、ぜんぜん美しくない。毎日、全然、なにひとつ楽なことなんてない。ため息をつく暇がないくらい忙しければいいのに、あいにく仕事は閑散期で、退屈の隙間をぬうように思い出が近寄ってきては無防備な私を下の名前で呼ぶ。持ちすぎた秘密を少しずつ手放すように、スカートの裾から大事な言葉を落として歩いている。手紙を書いている間だけは考えていてもいいよと言われているようで、それ以外の時は全て忘れなくちゃいけない使命感が押し寄せてくる。なにも考えなくて済むように映画や音楽や本やお酒で体をいっぱいにして、知り合ったようでなにも知らない人とあたりさわりのない会話をする。大げさな悲しみに見えるけれど、のろまなわたしが最後にもどってくる場所はいつもここだった。クリスマスの前の日にサンタさんはこないと告げられた子供のような、幸せの手前の大きな落とし穴には一度はまったらもう出られないってわかってたはずなのに。いつも誰かのために用意した食べ物や洗濯した服と一緒に暮らしている。自分のためだけに生きられるステージからは早々に降りてしまった。

 

ここ数日、あまりに寒いのでホットカーペットと湯たんぽを導入した。エアコンですぐ喉が痛くなるので、冷え症だけど暖房は入れたくない。湯たんぽ、少しぬるくなってくると猫を抱いているような感覚になる。自分以外に温度のあるものが布団のなかにあると、どうしてこんな気持ちいいんだろうな。冬はだいきらいだけど、あたたかいものを触った時のあの言葉にできない幸せな感じは好き。クリスマスの準備で、わたしの住むどうしようもない街にも申し訳程度のイルミネーションが光る。プレゼントを選ぶのが大好きだから、誕生日とかクリスマスとかバレンタインがだいすき。もらうよりあげる方が好きと話すといつも意外がられる。

 

先日結婚相談所で働いているという人と知り合い、少し話をした。なにか条件あれば探しますよ、と笑いながら言われたけれど年収も年齢も身長も家族構成とか、そういったものに関してはなんのこだわりもないと話したらすぐに表情が曇って、「あなたみたいな人が一番困るんですよね」と話し出した。気分を害したらすみません、と言われたので問題ないので続けてくださいというと、そういう人は自分が一番何を欲しがっているのかわかっていない。何人か紹介しても「なんとなく」とか「フィーリングがあわない」とかいう言葉でお断りする。そんな人は結婚相談所に来ても何も見つけられないですよ。自分の望んでいるものや物差しを数値化・言語化できないのであればこちらはなんの提案もしようがない、と。なので明確なものが見つかったらお声がけくださいね、と言われた。わたしは、他人の怒りや悲しみを軽率に扱わない人、とよく言うけれどたぶんそれはほとんどの人がぴんとこないものだと薄々感づいている。よしながふみの「愛すべき娘たち」という漫画がある。登場人物の女性がお見合いをするのだが、相手の男性が仕事のできない人のことを「怠け者」と表現したり、髪の短い女性のことを「世間に対して肩ひじ張ってるように見える」と話すのに心を痛めるシーンがある。私自身こういうこと、としか言いようがないのだけれど、たとえば相手が大きな会社に勤めていたり顔がかっこよかったりしたら「そんなことで?」と周りの人には言われるのだ。少なくともわたしは「そんなことで」と言わない人を好きになりたい。


宇多田ヒカル - Be My Last

 

以下、良い漫画です。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 
卒業式 (クイーンズコミックス)

卒業式 (クイーンズコミックス)

 

来月姉の結婚パーティーに出席する予定なので、いっちょここらでと思い立ち美容室とネイルサロンに行ってきた。髪を染めるも、髪の色が変わっていない。美容師の仕事にかける思い入れや使っているアイロンやハサミの値段を聞いて驚きつつも適切な相槌を打っていたこの二時間はいったい何だったんだ。もしかしたら今日ヘアカラーの予約であったことが伝わっていなかったのでは?と錯覚してしまう。カウンセリング時に3cm切って色のトーンを上げてくださいとお願いしたのに、最後自信満々に「1cm切りました!色は今回は控えめにしました!」と言われた時に「いやいや、違うじゃないですか~!」と陽気につっこめればよかった。初めて担当してくれた美容師に対する遠慮と、30分以上時間がおしていて後の予定に支障が出そうという事実が完全にわたしを黙らせてしまった。その後会った友人には「わぁ~なんか、メンテナンスしましたって感じ……?」と言われた。わたしはメンテナンスじゃなくてイメージチェンジがしたかった。ちょっと髪をツヤツヤにすることに数千円払えるほどの経済力はないし、この髪の毛にちょっとのツヤツヤ以上の何かを感じ取れるほどわたしは繊細じゃないんだ……

 

友達とサイゼリヤでご飯を食べた。みんなそれぞれ「ふつう」なんてものが存在しないことをよくわかっている。出身地も家族構成も環境も性別も違う人たちをどんなに均したってそれはあくまで平均でしかなくて、平均はふつうとイコールではない。10年もお互いのことを見つめ続けているのに、会えばまだ話したいことや伝えたいこと、知ってほしいことが出てくるのが不思議でたまらない。そしてどんな話題のときでも「いやそれはわかんないわ」と言えるのが快適だ。社会に出てから気づいたけれど、同調を求めない人間関係は意外と貴重。それにしても高校生の頃一緒に弁当食べてた人たちと、まさか10年後もサイゼでご飯食べてるとは思わなかった。サイゼリヤで好きなメニューはエビと野菜のトマトクリームリゾット、生ビール、キャベツとアンチョビのソテー、イタリアンプリンです。

 

少し前(10/21)に書いた記事だけアクセス数が以上に多い。よくわたしは家庭環境の話をするときに「めずらしい話じゃないんだけど」という前置きをしてしまう。最初は聞いた相手に気を使わせたくないからかな、とかかわいそうと思われたくないからかな、と考えていたけれど、父親に怒鳴られたりぶん殴られたりしておびえながら12年も実家で過ごしていたことをかわいそうと思うのはそこそこ妥当な気がする。かわいそうがられることを嫌がる人は多いけど、わたしはそれはあまりストレスではないので、かわいそうがるかどうかはこの件に関しては自由にしてください。しばらくこのことについて考えていなくて、単に口癖なのかなと思っていたけど、今日改めて思い返すと、様々な出来事の因果関係を家庭環境と結びつけないでくださいねという意味かもしれないなと思った。非行に走る理由が片親だから、とかじゃないけれど、わたしが年の離れた異性とばかり付き合っていたとき「父親からもらえなかった愛情が~」とよく言われていた。不都合な出来事や理解できない性質が見えた時に〇〇だからこうなんだ、と関連付けをしたがる人はそこそこ多いけど、結局そんな単純明快な場合じゃないことがほとんどな気がする。もちろん自分も無意識でやってしまってると思うけど。自分のことはもちろん、他人のこともできる限りミスリードしたくないな、と強く思う。そのための対話だし。


Sunny Day Service - クリスマス【Official Video】

弊社の社内報には、毎月様々な店舗の人がローテーションでコラムのようなものを書かれている。たとえば最近はまっていることだったり、おすすめの本だったり、お客さんと接していてこんな発見があった、とかそんなことが小さな枠のなかに収まっている。同じ会社の中の顔見知りの人が、こんな文章を書くんだな、こんなことを考えているんだな。その内容に驚いたり、共感したり、忙しい。まえに東京医大の入試トラブルのあった時期に男性社員がレディースデーと女性専用車両を「男性差別」と表現していた時は何言ってんだこいつと思ったが。当然のことながらわたしはしがない販売員なので、自分の考えを文字にする場は基本的にブログかTwitterくらいしかない。会社の人はわたしの選ぶ言葉を知らないし、わたしがそもそも文章を書くことが好きだということもしらない。このブログを読んでいる人の何割くらいの人の顔や声を私は見知っているんだろう。おそらくほとんどを知らないけれど、手癖だらけのこの文章を読んでくれている人たちに対して、わたしは明確に親しみを持っています。

 

知り合いと喧嘩をしてしまった。わたしがたまたま彼の詳しくないことを話題にして、少しずつ補足をしたりおすすめのネット記事とか本を紹介しながら話していたら「ねぇ、俺のこと馬鹿だと思ってるよね」と急に言い出した。そんなことないよ、と言ったあとに「あなたとわたしはお互いの知識や関心の領域が全然違うし、わたしだってあなたが詳しい分野の話は知らないことばっかりだよ」と話したけれどもういいよ、とだけ言われて会話が終わってしまった。まぁフェミニズムの話だったんですけど。自分の話し方が悪かったのかもしれない。でもなんか寂しい気持ちになったな。

 

ceroのorphansのPVの途中、3:57からの「あぁ 神様の気まぐれなその御手に 掬いあげられて」という歌詞の部分でボーカルの高城さんがやっているハンドサインがキリスト教の祈りじゃなくて仏教のハンドサインなんですけど。このハンドサイン右手が「摂取不捨印(人々を決して見捨てることはないという阿弥陀如来の慈悲を表す)」左手が「与願印(仏さまがわたしたちの願いを聞き届けようとしてくれている)」になってます。

この2つの印がペアで使われることはあまり見たことがないので、単に撮影のときにぱっと出てきただけのものだと思うんですが、この曲がもともと「夫のちんぽが入らない」という本の一文

私たちが本当は血のつながった兄妹で、

間違えを起こさないように神様が細工をしたとしか思えないのです

ここから着想したと知って、偶然生まれたこの神様の手、あまりに本の内容に対して救いがありすぎる…ッとなってしまい一人で勝手にエモくなってしまっていた。多分本を読んでない人には何を言っているんだこいつと思われると思うのですが、あらすじだけでもググってください。この本、知り合いの男性に貸したりプレゼントしまくったな。泣きそう。ビール飲んで寝ます

※著者のこだまさんとcero高城さんのやりとりがまとめられています(https://togetter.com/li/1074622


cero / Orphans【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

 

 

 

なぜかブログの読者が一日で五人も増えてびびる。無印で買った12月はじまりの手帳に予定を書こうと思ったけど、ひと月先には何の予定もなかったんだった。ブログを更新するたびに、読んでくれている同年代の女の子たちからのほとんど悲鳴にも近い「わかるよ」が届く。セクハラだらけの会社で、誰も覚えていないであろう飲みの席の言葉に丁寧に傷つく。売り上げがよければ「キャバクラ接客」、売り上げが悪ければ「女だから」今の店に配属されたのは「顔が良いから」そんなのを何度も何度も何度も何度も言われて、泣かなきゃ泣かないで「かわいくない」だもんな。かわいくないのはおまえの前だからだけど。

にきびできるのはいやだけど、この時間にチョコレート食べた。女の子に生まれてよかったって、誰か思わせてくれないかな。性別じゃなくて、顔でも体の凹凸でも長い髪でもないなにかで肯定されたい。ランドセルの色、女性専用車両へのディス、胸のサイズの話題、結婚しないせいでネタにされる親戚の集まり、忘れる気になれない。化粧はいいよ、自分でもやってて楽しいし可愛くなれるし。誰にも言えない秘密がなくなったらもう女の子じゃなくなるのかな。

友達と飲んだ時に恋愛の話になった。彼女は初めは恋人の全てが好きなところから始まって、だんだんいやなところが見えてくるようになると安心すると話していた。相手の嫌なところやわからないところが見えると、ちゃんと人間を好きになってるんだと実感するよね、と。何年か前、わたしはそれを律儀に恋人に伝えてしまい、微妙な空気になったことがあったな…とふと思い出した。わたしは君のすべてが好きなわけじゃない、それはすごく当たり前で、相手もきっと同じように感じていると思う。でもやっぱり言うべきじゃなかったのかもといまは反省している。

わたしは人より少しだけ親切で、お酒の席で明るく話せるけど、そうじゃない日のことを知ってほしい。わたしにもそうじゃない日のことを話してほしい。わかるよと言える保証もないくせに、不都合ごと見せてほしいと思うのはわがままだろうか。


tofubeats - No.1 feat.G.RINA(official MV)

 

寝苦しい日に眉間に寄ったしわとか、日に透けて茶色く見えるまつげとか本人も知らないようなほくろとか、一緒に歩いたやけにきつい坂道とか、親しげな距離から見える細部の積み重ねをきれいに引き出しにしまって、説明のつかない感情のかわりにこれを愛と呼ぶことにしている

最近は自炊をしている。料理と言っても別にこだわったものは作れないので野菜スープとなんか肉炒めたやつと納豆ごはん食べているくらいなんだけど。自炊すると食費がおどろくほど安く上がるので本当にすごいなと思う。わたしは外食すると100%酒を飲むし、割とありえない量を飲んだりするので基本的に不経済だ。あと味覚が敏感なので居酒屋の塩が振られすぎている焼き鳥とかが苦手。なので、結果家で自分の好みに合わせて作る方が満足度が高い場合が多い。一人分作るのは確かに面倒だけど、スーパーで買い物をするのは好き。得意料理はもつ鍋とカレーとチャーハン。

 

二年前に自分がブログに書いていた、「愛している、とはわかりあいたいという希望を捨てることができない、という意味だと思っている。」という言葉。この感情はあまり変わらないなと思った。わたしは結構怖がりで、触らなきゃいけない部分にさわれなかったり、ふざけたりごまかしたりしてしまうことが多い。わからないことやわかってもらえないことが分かってしまうのが怖いから。幼稚だ。アイデンティティを恋愛に託せないから、メンヘラとすら呼ばれない。ラブレター2万字書けるのに、会うと胸が泡立って泣き出してしまうのはどうしてなんだろうか。コンタクトにしてからあまりに見えすぎてしまう自分の泣き顔が情けない。ほんの少し先の未来のことばかり考えてしまい、一人でいると生乾きの洗濯物みたいな、居心地の悪さに苛まれる。大切な人の言葉だけで暮らしていけないとしても、大切な人の一言が一晩中わたしを慰めたりする。それはお金とか、スペックとか、伏線の回収とかで代替できないものだから、なくしたくないと泣くくらいは許してもらいたい。

 

ぼんやりしつつもこなさなければならないタスクの消化をすれば人並みに「やりがい」とかを感じられるようになった。70点くらいの毎日を過ごしては、100点か0点を行き来したころを思い出す。あの頃よりはマシだ、という気持ちだけを頼りに何とか人間らしさを失わないように気を付けている。映画を観て、本を読んで、教養や情報をむさぼるたびに、誰かとわかりあうよりももっと手軽で素敵な何かがあるということを証明するためにこうしているのでは?と思いぞっとする。子供のころ、私が図書館に通い詰めていたのは父親のいる家に帰りたくなかったからだった。そういえばあの図書館の駐輪所で自転車三回もパクられたけど、治安はどうなってるんだ


柴田聡子「涙」(Official Video)

 

仲の良い男の子からLINEで「しね、さよなら」と送られてきた。死ね、と言う言葉は関西では軽いノリで使うんだよ、と以前彼に言われた。でも、これは文脈からして違うなと思った。わたしは一時期京都出身、京都在住の男の子と付き合っていたがその人は今までわたしのまえで死ねと言う言葉を使ったことはなかったなとふと思い出した。

中学生の時に、ドアを閉める音がうるさかった、ドアを閉めておれを拒絶したなとキレた父親に壁に打ち付けられて首を絞められたことがあった。たぶん死ぬなと思ったときに母親が運よく帰宅してくれた。あのときにほんとは死んでいたのかもしれない。それ以降の人生はおまけというか、後日談のようなものだと思っている。わたしにとって死ぬというのは自分を鼓舞するためのものだった。願望ではなく信仰なのかもしれない。いまよりマシになりたい、というほどよくみすぼらしくほどよく強欲な願いをのっけるのに、死ぬことはあまりに手頃なのだ。現状がどんづまりではなく、まだ選択肢が残っていると思い込める、コスパがよく誰にでも思いつく希望だ。毎晩のように、自分自身に対して死ねという希望の言葉、一睡もできなかった朝ですら今日も大丈夫という呪いをかけて、部屋に置いてあるゾウのぬいぐるみの頭を撫でてから仕事に行っている。わたしはゾウが好きなのだ。

ものごころついてからずっと、降りられないジェットコースターに乗って居るような恐怖がある。降りるには速度がはやすぎて、乗り続けていたらきっと気が狂う。誕生日が近づくと、父親に一度も暴力を振るわれることのなかった兄と姉の人生を想像する。わたしたち兄弟はみんな誕生日が近く、とても寒い日に生まれている。2年前の23歳の誕生日、わたしはtwitterに「お父さんのことだいすきになりたい」とつぶやいていた。父親のこと、嫌いだけど憎んではいない。むしろきちがいとしての大義名分をもらったようなものなので、実家では安心して頭のおかしい妹でいられる。殴られたという免罪符で、たいていのことを見過ごしてもらった。この先も、きっとすごく苦しい思いをして、全然ほしくないけど生きるには必要なものを手に入れるだけなんだろうな、一生。そう思うと、おまけでもなんかもういらなくね?と少しだけ思う、生理前の時だけだろうけど。

明日は髪を切るので少し早起きをする。夜は餃子を作る。ケチャップと鶏ガラスープの素とごみ袋を買うのを忘れないようにする。

 


(I'm not) by you / syrup16g

台風がきている。先日書いた記事にもあるように、睡眠薬を飲んで寝ているのだが風の音がうるさくて今日はそれでも寝付けない。災害時の備蓄用に買ったはずのランチパックだけど、おなかが空いてしまいこの時間に熱いお茶と一緒に食べている。余談だけどランチパックは絶対ピーナッツ派。最近悲しいことが多くてお風呂で、電車のなかで、一人しか乗って居ない平日昼間のバス、至る所で涙が出てしまう。暇だからと少し映画を観すぎたせいかもしれない。涼しくなってきたからパジャマを秋物に変えたけど、日中は暑くてまだ半そでを着てしまうことが多い。わたしの好きな人はいつも季節感のない服を着ていた。彼が暑い日に着ていた長袖のせいで、わたしたち二人の間にはいつも季節一つ分のずれがあるようだ。

 

高校生から大学生の途中くらいにかけて、週に二回くらいは新宿のライブハウスにいた。その当時付き合っていたバンドマンの男の子はいまなにをしているだろう。今まで付き合った四人の男の子たちの名前と誕生日、最寄り駅を思い出す。不器用極まりない恋愛をしていたような気もするし、わたしばかりが器用でずるかったような気もする。男の子たちが夜中に自分のためだけに弾いてくれたギターやピアノの音、当時のわたしは家庭環境が最悪で、世界で自分のためだけに鳴る音にずっとずっと救われていた。バンドマンの彼女なんて別に華やかなものでもなく、楽屋に一度も入ることはなかったしライブもチケット代を払って観に行っていた。今も音楽は好きだけど、仕事をはじめてからはなかなかライブハウスに行けていない。男女関係の話しかしない一部の人たちが面倒になったっていうのもある。今となってはボケナスがなんか言ってるなくらいにしか思わないけど。

サーティーン、かれこれ10年くらいずっと好きだな。聴くとたまに泣いちゃうけど。


サーティーン『いやらしい』