2,3年前の冬に書いた記事が下書きに入っていたままだったので投稿します。

 

友人たちが私を励ましに自宅まで遊びにきてくれた。一人は大阪から。一人は千葉から。みんな、自分の理想の100点の恋愛をあきらめられなくて苦労している。

一時間と少し車を走らせて神奈川のはじまで温泉に入りに来た。道中はコアラのマーチ。田舎町の温泉は地元に住む老人だらけで、平日の昼間、私たちの裸は若すぎて少しだけ浮いていた。風のない冬の日は陽が傾くのが早く、落ちてきた日差しを浴びた左頬がちりちりと暑かった。自宅までの帰りに湖に寄って、シャッターの閉じたおみやげ屋さんの通りを歩く。機関車トーマスの遊具に200円払ったら「しゅっぱつしんこう!」と叫びだして、死ぬなら今だと思うような夕日を分厚い防寒ガラス越しに眺めて、石油ストーブの燃える音とわたしたちの笑い声だけがさびれたゲームセンターに響いていた。二時間ほど車の中に放置したアルフォートは溶けて、船はチョコレートのなかで難破した。

自分の切実さを自分で肯定することができたならどれほど豊かな人生だっただろう。透明なセロテープのはじまりが見つからなくなるように、どこから間違えてしまったのかさかのぼって探したってわからない。帰り道にスーパーで恵方巻を買って、アイフォンで北北西の向きを調べているとき、あぁ、わたしは本当につらいんだと実感した。日頃だったら気にもとめないような些細なものが気になって、すがりたくて、少しでも楽になりたいんだと。憎しみは悲しみより持続しないからすぐに忘れて許すことができるってわかっている。でも許す気持ちよさも、許される気持ちよさもいらない。そうしないことを選んでいるのが、私のゴミカスみたいで社会からしたらなんの意味も必要もないささやかな自由だ。


fishmans / いかれたBaby