仲の良い男の子からLINEで「しね、さよなら」と送られてきた。死ね、と言う言葉は関西では軽いノリで使うんだよ、と以前彼に言われた。でも、これは文脈からして違うなと思った。わたしは一時期京都出身、京都在住の男の子と付き合っていたがその人は今までわたしのまえで死ねと言う言葉を使ったことはなかったなとふと思い出した。

中学生の時に、ドアを閉める音がうるさかった、ドアを閉めておれを拒絶したなとキレた父親に壁に打ち付けられて首を絞められたことがあった。たぶん死ぬなと思ったときに母親が運よく帰宅してくれた。あのときにほんとは死んでいたのかもしれない。それ以降の人生はおまけというか、後日談のようなものだと思っている。わたしにとって死ぬというのは自分を鼓舞するためのものだった。願望ではなく信仰なのかもしれない。いまよりマシになりたい、というほどよくみすぼらしくほどよく強欲な願いをのっけるのに、死ぬことはあまりに手頃なのだ。現状がどんづまりではなく、まだ選択肢が残っていると思い込める、コスパがよく誰にでも思いつく希望だ。毎晩のように、自分自身に対して死ねという希望の言葉、一睡もできなかった朝ですら今日も大丈夫という呪いをかけて、部屋に置いてあるゾウのぬいぐるみの頭を撫でてから仕事に行っている。わたしはゾウが好きなのだ。

ものごころついてからずっと、降りられないジェットコースターに乗って居るような恐怖がある。降りるには速度がはやすぎて、乗り続けていたらきっと気が狂う。誕生日が近づくと、父親に一度も暴力を振るわれることのなかった兄と姉の人生を想像する。わたしたち兄弟はみんな誕生日が近く、とても寒い日に生まれている。2年前の23歳の誕生日、わたしはtwitterに「お父さんのことだいすきになりたい」とつぶやいていた。父親のこと、嫌いだけど憎んではいない。むしろきちがいとしての大義名分をもらったようなものなので、実家では安心して頭のおかしい妹でいられる。殴られたという免罪符で、たいていのことを見過ごしてもらった。この先も、きっとすごく苦しい思いをして、全然ほしくないけど生きるには必要なものを手に入れるだけなんだろうな、一生。そう思うと、おまけでもなんかもういらなくね?と少しだけ思う、生理前の時だけだろうけど。

明日は髪を切るので少し早起きをする。夜は餃子を作る。ケチャップと鶏ガラスープの素とごみ袋を買うのを忘れないようにする。

 


(I'm not) by you / syrup16g