男の子からバレンタインにチョコレートを4つもらった。どれもこれもおいしくてラッピングがかわいくて嬉しい。たしかおととしは好きな人にチョコレートと手紙を送った覚えがある。わたしは本当に嘘がつけなくて、丁寧なラブレターを添えては友チョコと言えばよかったと後から後悔したのをよく覚えている。去年だったら茶化しながらそう言えたのかもしれない。素直な自分をさらけ出し、愛する事を諦めない、と嵐が歌っていたけれどあの歌詞本当に良いな。うまくいったってうまくいかなくったって、大好きな人の顔を思い浮かべてチョコレートを選ぶのはかけがえのない時間だと思う。

 

一緒にいても人生に干渉させてくれないことがさびしい、と言われたことをふと思い出した。わたしはがらんどうなのだ。

 

仕事中、よくお客さんが泣いてしまうことがある。誰かの最後に立ち会った人たちの毎日を立て直すまでの手伝いをしてお給料をもらっている。お客様の価値観を変えろ、とよく上司に言われるが、そんなこと、そんなことしてこの人たちの救いになるのだろうかと真剣に考えては家に帰ってパンクしそうな頭にアルコールを入れて正気と狂気の間を行ったり来たりしてぶち切れている。死の前での共感は傲慢だ。人が死ぬ映画を何百本観たってわからない景色がそこに座っている。わたしは別にペシミストじゃない、でも毎日毎日どこかで誰かが死んでいてその話を聞いてその人たちに物を売っている以上、やっぱりそうならざるを得ない部分、やりすごせない要素があったのだ。それは別に善人だからとかじゃない、境遇や性質が絡んでたまたま生まれた偶然であって、自分のまっとうさや人間らしさなんてはなから信用していない。退廃の仕方なんて知り得ないのに、精神だけどんどんすり減って、お風呂に入るたびに溶けてなくなっていくようで、石鹸の残りかすみたいになわたしはベッドのなかでわかりもしない他人の心を想像してはしくしくと泣いてしまう。弱くてみじめで涙腺だけ発達した、なにもできない人間だ。どんなときよりもこの時間がつらい。どうせ他人の人生に一生踏み込むことができないんだというわかりやすく明快な絶望だ。でも、大切な誰かを失ったことに向き合う人を見過ごせなくて、いたわりたいなんて思うくらいには見ず知らずのあなたにやさしくしたいといつも思っている。それをださいとかみっともないとかクリエイティブじゃないなんて言われたってかまわない。純度100%のエゴかもしれないけれど、わたしにとってこの仕事はもしかして誰かを救えるかもしれないと、わがままな夢をみさせてくれるものなのだ。

 

シャンパン一本ビール3本飲んだので今日はもうおしまい。誕生日にもらったモンブランとティラミスおいしかった。甘い栗が苦手だと話していたのを覚えていてくれたのかお芋のモンブランをもらってうれしかった。