洋服を買いたいけれど、どこもかしこも閉まっているせいでネットショッピングのスキルが上がった気がする。試着しないで服を買うのが怖くて普段はルミネやらパルコやらを上から下まで一周して買い物していたが、いまはそうもいかない。ミスらないコツは自分の体の特徴を知ること。わたしは肘上が短くて、首と胴が細長くて、おしりが小さく足が太い。とりあえずそこをカバーできる服であれば試着しなくても意外となんとかなるということがわかった。化粧品も同様。既存のラインナップの色味をみることでなんとなく何色が似合うか似合わないかわかるようになってきた。着たい服きてつけたい色つけるのが心には一番いいんだろうけど、やっぱかわいいと思う服と自分がかわいくなれる服って微妙に違うんだな。いまはかわいいと思われたい時期。

ただ服も本もTSUTAYAもそうだけど、店にいって思いもよらないものに出会うみたいなの、めっちゃやりたくて仕方がない……

 

あげくの果てのカノンを久しぶりに読み返して自分と主人公との親和性に鳥肌を立てた。

信仰なのか恋愛なのか執着なのか。10代の終わりのころ、好きな人を神様にするのをやめてから、ずいぶん他人にやさしくできるようになった気がする。でも誰かひとりのことを思い生きがいにして、それにまつわるすべての事象を愛せるのなら、それはむしろこちらが神様になったのと同義なのではないだろうか。うまくいってると思っているときはたいてい落とし穴の一歩手前にいるだけとわかっているし、なんとなくぼんやりと好きな人がどこかへいってしまう気配みたいなのを感じている。勘違いであってほしいと思う気持ちと高望みする自分への戒めを行ったり来たりしている。

 

昨日海を見に行った。わたしは青い穏やかな海もグレーに泡立つ不穏な海も好きだ。溺れたって、泳ぎ切ったって、都合よく何かに裏切られたり肯定されたと勝手に思える、認知のゆがみを正さず想像力の幅を殺さずにいてくれるから自然が好きだ。せいぜい数時間しか持続しないであろうとふんで軽んじられることが多い感情が積み重なって、津波のようにどっと押し寄せる夜がある。夜が過ぎるのはながい、汗が乾くより先に終わってくれと切に願う。エモいとか、使い古された形容詞の未来を心配しては何とかやり過ごす。観光地にあるしょーもない喫茶店でしょーもないオムライスを食べるロマンを共有したいとか思う。特別は二人きりでも作れるって過信させるよ。一人分のご飯を作るのはめんどくさい、餃子の皮が死ぬほど余る。花の美しさを愛でたいのではなく花を見て美しいねと語り合う時間がほしいから花を買うんだと気づいた。ご存知の通り酒を飲んでいる。一緒に過ごした駅を歩いて、思い出のある店が開いたり閉まったりしてるのを当然だと思いながら当然のように傷ついて、手に取れるくらい具現化された心臓の痛みを大切に携えては、海のはじっこから時計台まで来た。この町はわたしのものではないが、ほんの数百メートル、去年の夏流れた汗の分だけ、たしかにこの道はわたしの世界の中心にあった。

 

宇多田ヒカルの新曲の歌詞、「一人で生きるより 永久に傷つきたい」と言う歌詞がエヴァンゲリオンそのもので、宇多田ヒカルってほんとにあの世界観を地で生きてる人間なんだな……と思った。物を作る人のすべてが、誰かにとって永遠に癒えない傷をつけてしまう可能性を抱いたまま物を作って居たら、今より少しだけ悲しいことは減るような気がする。謎のスイッチが入ってしまい夜通し宇多田ヒカルのアルバムを聴いていた。このブログ、好きな人に見られているしそろそろ書く内容をあらためようと思う。


宇多田ヒカル、新曲「誰にも言わない」を先行公開 新CMで雄大な滝を前にすがすがしい表情 詩も朗読