先日相模湖に行った。レトロゲームとアヒルボートと散歩中の犬以外なにもない公園だ。自分が今の会社に入ってから初めて接客したお客さんがこの近所に住んでいた。わたしと同い年の息子さんを自殺でなくした人だった。雪の日や、雨の日や、夏の気持ち悪くなるくらい暑い日に社用車を走らせて、片道一時間の運転で凝った肩を赤信号のたびにほぐしていたことを思い出す。湖を見ていると、頭がぼうっとする。目の前で起きていることではなく過去や少し先のことに気を取られてよくわからなくなる。水鳥に餌をやる家族が見えたけど、少しうつむいている間にいなくなっていた。本当にそこにいたのか、確かめる術がない。

 

ニュースを見ていると最悪の事態ばかり考えてしまう。みんなあまりに諦めに身をゆだね過ぎたつけがまわってきていると思う。うそをうそと思わず、惰性を貫いて将来を売り渡して、それでなにか良いものが見えただろうか。仮になにか見えたとしてもそれはそんなに素敵なものだと思えないけれど。頑張った分だけ報われ続けたのか?というくらい楽観的で疑いをもたない人を見ていると少しうらやましくなったりするけど、他人事にするにはわたしはまだまだ生い先が長いのだった。

 

自分の人生は大きい砂漠だと思っている。たまにサボテンとかラクダとか水辺を見つけて、わたしはそこで少しずつ自分の輪郭を再確認したり変化を受け入れたり潤ったりするけれど一生そこにとどまるわけではない。約束すらできない人に話すような秘密を用意しておくほどサービス精神旺盛じゃないし、まっとうな恥じらいと軽蔑を知っているからこそ、わたしは自分の話に没頭しきれないのだ。だからわたしの物語は必ず別の登場人物を必要とするし気まぐれに見つけた語り先で話したい話を話したい分だけしか話さない。自分の話ができないの、全然良いことじゃないしなんの得もしていない。でもわたしは臆病者だから、私自身がわたしの人生においてより良い道連れのパートナーになることしか考えられないのだ。それを世間では自己実現と言ったりするらしいが、もっと別の言葉がある気がするけれどビールを相当飲んでしまったので今あまり思いつかない。不毛としか呼べない砂の土地を、疲れを知らない子供のように電池が切れるまで歩き続けて、気まぐれに水を飲んだりするのだと思う。

 


メレンゲ - きらめく世界